
伝えたいナガサキ~被爆76年 被爆者とともに~ 被爆者 山川 剛さん コロナ禍のいま"伝える"ということ
長崎に原爆が投下されてから76年。新型コロナウイルスの感染拡大は被爆の継承活動にも大きな影響を与えています。あの日、8月9日の出来事を伝え続けてきた被爆者は、いま何を思っているのでしょうか。
被爆者 山川 剛さん「キャンセル、キャンセル。病院の日程はガッチリ入っている、ゼロ。2年続けて、一番多い5月に1校もない」
被爆者の山川剛さん、84歳です。新型コロナウイルスの感染拡大が、若い世代へ被爆体験を語り継ぐ活動に影を落としています。被爆体験講話を始めて24年、年間90回近くも行っていた講話は、去年は全く予定が入らず、今年もキャンセルが相次いでいます。
山川 剛さん 「将来を任せている若い人、子供たち、聞く機会を失っていることに対する虚しさ、そういう機会を奪われている状態に対して早く収まってくれないといけないという気はします」
1936年、長崎市で生まれた山川さんは浪平国民学校の3年生、8歳の時に、原爆が投下された1945年8月9日を迎えました。
山川 剛さん 「ここなんですよ。もちろんここの家もなかったしね、なんもなかった。地面があって崖があったらそこに掘ってあった」
爆心地からおよそ4.3キロの長崎市浪の平町。山川さんが被爆した場所です。
山川 剛さん 「手のひらにのせていた泥まんじゅうを地面に置いて、立ち上がった瞬間にピカッと来た。何が起こったかわからない、無意識に防空壕に飛び込ませるというその熱線だったということは間違いない」
逃げ込んだ防空壕はすでにコンクリートで塞がれているということです。長い年月が経ちコケや木々に覆われていて防空壕のあとを確認することができませんが、山川さんの記憶にはしっかりと刻まれています。
山川 剛さん 「ここに(防空壕が)あって、こういう人がいたんだよというのは書き残しておく、誰かに伝えておく。それこそ継承していかないと完全にゼロになる」
山川さんは小学校教諭を36年間務めた後、2005年からは活水高校の非常勤講師として「長崎平和学」の授業を受け持っていました。 その傍ら、毎月9日に平和公園で行われる反核9の日の座り込みや安保違憲訴訟で声を上げるなど、積極的に平和運動に参加しています。
長崎原爆の日まで1カ月となった7月9日、山川さんは長崎市立城山小学校を訪れました。今年、数少ない被爆体験講話の依頼があったのです。
山川 剛さん 「『あっ、これはB29ばい』学校で飛行機の音を聞き分ける授業が戦争中にあった、こんな悲しい勉強が戦争中にあるんですね、一発で分かった、これはB29だと。ピカーッときました、私は目を開けていたが、周りの風景が一瞬消えるんです」
新型コロナ対策のため、対面で聞くのは小学6年生だけです。山川さんの前に置かれたカメラを通して各教室に講話が配信されます。
山川 剛さん 「コロナがなくても被爆者が1人もいなくなる時代がくる。被爆していない人がしゃべるということになる。対面以外の方法もあるかもしれない、被爆者がいない時代に被爆体験講話はどうあるんだと、今のコロナの時代は考えてみなさいと言っているような感じがする」
全員が対面ではありませんでしたが、子供たちはしっかりと山川さんの話に耳を傾けてくれました。
山川 剛さん 「爆心地の上空500mで原爆が炸裂しました。私は左側に熱い光を受けました。今までで受けたことがない熱い光です」
山川さんは、今年1月に核兵器の使用や保有、威嚇などを全面的に禁止する「核兵器禁止条約」が発効されたことに触れ、「二度と被爆者を作らない、世界中の核兵器を ゼロにすることはできる」と強く訴えました。
「核兵器は全てダメだと、この地球上にあることすら許せない、全て核兵器は悪であるということが初めて国際的に決められたのがこの条約」 「将来、核兵器はなくせるという希望を私は皆さんに伝えたいと思っている」
講話を聞いた児童「被爆者の方の実際の体験を元にした思いが私たちだと分からないので、そういうことが聞けたので良かった」
講話を聞いた児童「自分の平和への思いや核兵器をなくしたり、戦争は絶対にしないでいこうということを、皆さんに伝えていきます」
一人でも多くの子供たちに被爆体験の継承ができるように、そして体力が続く限り、語り続けたいと山川さんは使命感に駆られています。
山川 剛さん 「伝える方法は変わったにしても伝える中身は一緒なんですよ。本当に起こったらどうなったか言えるのは私たちですから。だから繰り返したらいかんと、目の前の子供にあなたたちを将来被爆者にしたらいかん、僕たちだけでたくさんなんだ、今とこれから生きていく人たちに対して二度とこういうことが起こらないようにするには、起こったとしたらこうなったということきちんと正確に伝えないといけないというのが、継承の意味だと思う」
山川さんは約3年前、狭心症を発症し、左胸にはペースメーカーを入れています。最近では体重が減り、その形が浮かびあがってきています。小さな機械に生かされていると感じながらも、これからも次世代への継承に力を注いでいくと誓っています。