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2021年06月06日

当時の"思い"も伝える場所に 雲仙岳災害記念館の杉本館長<普賢岳噴火災害30年>

今年5月、長崎県島原市にある雲仙岳災害記念館の新しい館長に、杉本伸一さん(71)が就任しました。杉本さんは30年前の雲仙普賢岳噴火災害当時、島原市の職員として安中(あんなか)公民館に勤務しながら住民の避難対策などに当たりました。

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雲仙岳災害記念館 杉本 伸一館長
緑はなくなり、木々がなぎ倒され、灰色一色 家は燃え上がる。
机の上の無線機に『逃げまーす』っていう声が聞こえた。あとで調べたらこの消防車が言っていたらしい。火砕流が怖いものだと6月3日の午後4時8分に分かった。書物とかにはあるけど実感したのはこの時。

199163日に発生した大火砕流では、消防団員や警察官、マスコミ関係者など43人が犠牲になりました。
杉本さんは2009年の島原半島世界ジオパーク認定にも尽力し、2020年春まで6年間にわたり、岩手県宮古市で「いわて復興応援隊」として、三陸ジオパークの活動を支援してきました。

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報道関係者が当時、普賢岳に向かいカメラを構え続けた、島原市北上木場地区の「定点」と呼ばれる場所を訪れた杉本さん。この場所は荒れ野のまま長年そのままになっていましたが、今年、災害遺構として整備されました。

杉本伸一さん:
だんだん忘れられるかもしれないけど、こういう時に皆さん、そういうことを思い出す。それをお弔いしながら、この地域をどうしたらいいのかというのを皆で考えるひとつの機会になればいいなと。

今年に入り「定点」では3台の被災車両が掘り起こされ、近くからはカメラの三脚やレンズなども見つかりました。

s-Still0604_00011.jpg杉本伸一さん:
記憶というのは、そこに人々の思いが入っていく。そういうのも含め伝えることで、初めてこの雲仙普賢岳の災害がちゃんと伝えられるのかな。

島原市の島原中央高校で、若い世代に噴火災害の教訓を伝えようと、杉本さんは大火砕流の写真などを見せながら約140人の生徒を前に講話しました。この高校は、普賢岳に堆積している「溶岩ドーム」が大規模に崩壊した時の避難所のひとつになっています。

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杉本伸一さん:
私はこの機材が見つかったとき
、30年目にこの機材が何を訴えるのか、この災害を忘れるなよ、というメッセージではないかと思った。
できればみなさんも機会を見つけてあの災害の現場、定点に立ってもらって、現場の風を感じてもらって、普賢岳の距離、そういうものを自ら感じてもらって、あそこで起きた災害がなんだったのかということをぜひ感じてほしいなと思っている。

杉本さんは「災害の歴史や土地の成り立ちを知って、どの場所でも地域の防災リーダーになってほしい」と生徒たちに呼びかけました。

話を聞いた高校生
これから10年、20年経ったとしても、自分達で次の世代に語り継いでいけるように頑張りたいと思う。

話を聞いた高校生
地元だから、地元じゃないからという理由だけじゃなくて、いろんな人に知ってもらうためにもSNSで発信することが大切だと思いました。

杉本伸一さん
災害というのは単に災害があったということではなくて、災害にあったときにどういった思いをするのか。そういう思いを乗り越えながらどうやって復興してきたか。どういう思いで復興に取り組んだのか。私はそこを丁寧に伝えていく。自分の思い、あの時一緒に頑張った人たちの思いを伝えていく

火山は噴火すると「被害」を及ぼしますが、一方で温泉や湧水など「自然の恵み」ももたらします。これからも「普賢さん」との付き合いは変わりません。

杉本伸一さん
普賢岳が噴火して大きな災害を起こすかもしれないだけど、そのときに私たちがどう行動したらいいか、普賢岳の噴火災害や過去のほかのところで起きた災害も参考にしながら学んだことを次の災害に生かしていく。そういう形で火山と付き合っていく。ただし恵みもたくさん頂いて素晴らしい生活を送りたい。

杉本さんは「雲仙岳災害記念館を災害を考え・学ぶ拠点に」と、今後も若い世代への継承に力を尽くしたいと語っています。

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