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2021年06月13日

被災者に寄り添う"災害報道"とは ジャーナリスト江川紹子さんと「定点」へ<普賢岳噴火災害30年>

1991年6月3日に発生した雲仙・普賢岳の大火砕流から今年で30年を迎えました。
当時を知るフリージャーナリスト 江川紹子さんが、災害報道の原点・島原を訪ねました。

フリージャーナリスト 江川紹子さん:
日常を見ないで、目的を持って「これを撮ってきて」となると、被災者とのズレみたいなものが出てくる。

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6月6日、雲仙普賢岳のふもと、長崎県島原市で噴火災害の教訓や地元住民の声を今後の災害報道にいかそうと、新聞やテレビなどのマスコミの労働組合が集会を開きました。
43人の犠牲者を出した雲仙・普賢岳の大火砕流から30年となる今年の集会では、島原市の元職員や報道関係者など7人が、当時を振り返りました。

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フリージャーナリストの江川紹子さんです。
30年前、大火砕流から約半年後に島原を訪れて以降、同僚を亡くした記者や遺族の取材を通して災害報道の課題を見つめています。

集会を前に、江川さんは「災害報道の原点」を訪ねました。雲仙・普賢岳の溶岩ドームを正面に臨む島原市の上木場地区です。活発な火山活動が繰り返されていた30年前、テレビや新聞など報道関係者は、取材ポイントとして避難勧告が出ていた区域の「定点」にカメラを構えました。

そして地元の消防団は「定点」近くに拠点を設けて警戒に当たります。報道関係者が、住民が避難した後の留守宅の電気を無断で使用したりする不祥事が起きたからです。

1991年6月3日の大火砕流で、「定点」周辺ではマスコミがチャーターしていたタクシーの運転手も含めると20人が亡くなりました。そして、地域を守ろうと警戒にあたった消防団員12人と、住民や報道関係者に避難を呼びかけた警察官2人も、近くで殉職しました。

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フリージャーナリスト 江川紹子さん:
(災害報道の)原点はここだ、と。忘れちゃいけないなと。やっぱり何のために報道して、報道するという仕事はどこで完結するのかも含めて、体で感じる場所なんじゃないか。

今年、定点の周辺は「災害遺構」として保存・整備が行われました。

雲仙岳災害記念館 杉本 伸一館長:
これをしたからと当時の報道の人たちの行ったことが帳消しになるわけではない。災害報道をどうするか、もう1回皆で体験を引き継いで共有していく作業が必要。

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雲仙・普賢岳の噴火災害以降も、阪神淡路大震災や東日本大震災など、長期間におよぶ災害の取材・報道が続いています。これらの被災地でも、「取材する側の継承」が課題となっています。

当時を知らない世代が現場を担う将来を見据え、経験を共有する機会をつくった新聞社もあります。連載記事を通して若手記者に被災者を取材する機会を作り、先輩記者が取材の経験や被災者と向き合う中で感じた葛藤を後輩に引き継いでいます。

9843132105.jpg東日本大震災の被災地・岩手の岩手日報記者もオンラインで集会に参加しました。

当時、入社3年目だった金野記者は、発災後、自ら志願して地元・大船渡の取材にあたりました。被災地で取材を重ねる中で、震災から今年10年を迎えました。取材の根底にある「二度と同じ悲しみを繰り返さない」との決意と願いを未来に引き継ごうと、岩手日報はプロジェクトチームを立ち上げました。

金野記者:
東日本大震災の後に入社した社員の有志を募って、自分たち自身がどう向き合っていくべきか、どういうことを新聞社として発信していくべきかを自ら考えてもらおうと。

釜石市出身の記者が故郷の被災者を訪ねて記事を連載したり、イベント等を通して教訓や備えを考える機会を設けるなど、震災との向き合い方も含めて読者に向けて発信・共有しました。

集会の参加者たちは、被災者に寄り添う災害報道の大切さを感じたようです。

フリージャーナリスト 江川 紹子さん:
(30年前の災害報道から)少しずつ前に進んでいるけど、やっぱりまだまだしなければいけないことってありませんか?と(マスコミ自身が)問い直す時期だと思う。

自らを省みると共に、被災者に寄り添う報道には何が必要なのか、災害報道の原点「定点」は問いかけ続けます。

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