被爆医師・秋月辰一郎氏没後20年 親交あった30人が墓前に集まる「核兵器廃絶への思想を引き継ぐ」
被爆医師・秋月辰一郎さんがこの世を去って20日で20年です。
核兵器廃絶と平和な世界の実現に向け立場や考え方の違いを超えて市民が集う「長崎スタイル」とも言える平和活動の形を作り上げました。
命日の20日、長崎市石神町の墓地には同じ病院で働いた医師や看護スタッフ、それに平和活動を通して親交があった人など約30人が集まりました。
秋月さんと妻・すが子さんの墓前に一人一人が花を手向け、思い出話に花を咲かせました。
同じ病院で働いたシスター
「患者一人一人によくお声をかけておられたのを今、思い出します」
聖フランシスコ病院 大曲 武征 元院長
「秋月先生はすばらしい大黒柱でした。我々職員を支えてくれました。それは今でもまだ続いています」
秋月さんは、爆心地から1.4km離れた浦上第一病院=現在の聖フランシスコ病院で診察していたときに被爆しました。
医薬品がない中、押し寄せる負傷者たち、後に「死の同心円」と表したじわじわと広がっていく放射能の被害、原爆の強烈な体験は秋月さんが生涯をかけて反戦・反核に取り組む強い原動力になりました。
秋月辰一郎さん(1989年)
「長崎でずっと原爆後を見てきたし、原爆体験者として、あのときにもう戦争は、日本は、するべきでないと絶対にするべきでないと」
医師として被爆者の治療に携わるだけでなく、被爆体験の記録や継承の必要性を訴えたり、党派や思想を超えて市民が集える「ながさき平和大集会」を立ち上げたりと、市民とともに長崎ならではの活動を形作りました。
この集会からは、高校生平和大使など被爆地を代表する若い世代の活動が生まれました。
秋月さんの活動を受け継いだ被爆二世 平野 伸人さん
「秋月先生が亡くなってもう20年も経つのか、という思いがしました」「長崎の戦後の偉人という風に私は思っております。ぜひ、この秋月先生の思想を我々が引き継いでいきたいと思っています」
秋月さんの命日にあわせた墓前祭は親交があった人たちが毎年続けていて、2025年は京都から長女の信子さんも駆けつけました。
秋月さんの長女 藤 信子さん
「みなさんのお気持ちに感謝するしかないですね」「(秋月さんが)『小異を捨てて大同につく」と言ってそれに賛同した方が集まった」「(お互いに信頼関係があり)言いたいことをお互い言えたから、(集会などを)ずっとやってこれたんじゃないかなと思っています」
子供たちに原爆の被害を分かりやすく伝えたいと語っていた秋月さん。その遺志を胸に、関係者はそれぞれの活動の継続を誓っていました。
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